今回は「Metal Butterfly」が誕生した経緯をお伝えしようと思います。
私たちがなぜ金属で蝶ネクタイを作ることになったのか?
そして、なぜ蝶ネクタイが「サプール」と関係しているのか?
これまでにも皆さんからご質問を頂くことが多かったトピックでもありました。
これからお話する内容は「Metal Butterfly」と「サプール」についての私たちの物語です。
昨年インターンとして弊社で働いてくれた、
インドネシア出身のデザイナー・サラとの記念写真
私たちの会社・日青工業は、1998年に私の父である青木一郎が創業した精密板金加工の会社です。そしてその技術を生かして作られているのがアルミ製の蝶ネクタイ「Metal Butterfly」です。
ちなみに精密板金加工というのは、主に産業用装置の筐体や部品を製作するのが主な業務で、具体的な例を挙げると医療機器や食品加工機、配電盤、制御盤、サーバーラック、またオフィス用書棚やロッカーなども私たちの業界が製作している製品になります。
鉄・ステンレス・アルミ・銅などの板材を様々な形状に切り抜き、曲げて、部品によっては溶接なども行い、その後に塗装やメッキなどの表面処理を施して完成品になっていきます。
よく「プレス屋さん」と間違われることがあるのですが、「プレス」はその部品を作るための専用金型を用いて大量生産する業界、「板金」はそれから比べると小ロットで、専用ではなく汎用金型で加工をする業界、今のところはざっくりとこんな分け方にしておきます。
弊社が製作している板金部品の一例
では、「Metal Butterfly」が生まれたいきさつをご説明するために、まずは私が26歳だった18年前の2002年まで遡っていきたいと思います。
「倒産寸前」から「自社商品」の夢
私が日青工業に入社したのは26歳の時でした。
そもそも当時の私は父の会社を継ぐことなど考えてもいませんでした。
短気で怒りっぽい性格だった父とは相性が悪く、何かにつけては母を怒鳴りつける姿を見て育った私は父を心から憎んでいました。
一緒に生活をしていても心が休まることなどないので、地元に戻ることも、ましてや同じ会社で仕事をするなんて想像するだけでも気分が悪くなるような、そんな関係性でした。
実際、大学卒業後は横浜や都内でサラリーマンとして働き、CGや映像編集の勉強ができるスクールに入るための学費を稼いで、将来的にはそちらの業界に転職したいと考えていました。音楽が大好きだった僕は、ミュージックビデオのようなクリエイティブな映像の世界で活躍したい、そんな若者らしい夢を持って充実した毎日を送っていました。
しかし26歳のある日、母からかかってきた1本の電話が、私の人生を変えることになります。
「シゲユキ、お金借りることできる?」
あまりに衝撃的な電話でした。
電話口からもお金のやりくりに苦労する母の心境が伝わってきたので、ひとまず自分の貯金を全額送ることを伝え、その上でどういう事情なのかをもう少し詳しく聞いてみると、父が経営する会社がいよいよマズい状態であるといことが次第にわかってきました。
翌日、当時の勤務先の上司に相談し、最終的には仕事を辞めて実家に戻ることを決心します。
当時、日青工業は主要取引先の倒産などの影響もあり財務体質は極めて悪化しており、もはや倒産寸前ともいえる状態でした。
自分が立て直さなければ、終わる。
一瞬にして人生の歯車が狂ってしまったような、そんな気持ちでした。
具体的な数字はここでは控えますが、経営に携わっている方にこの当時の状況を話したら10人中10人が「やめなさい」と言うと思います。ただ、現実問題として僕が立て直すという選択肢以外に方法がなかったのが実情です。
そんな状況を乗り越えるため、とにかく必死で仕事に取り組みました。
まず自分の十分な給料を会社から出すことすら厳しい状態だったので、昼間は会社の仕事をして、夜7時から夜中までは近くの食品物流センターで3年間ほど仕分けのアルバイトをしていました。
弊社社員の真鍋。
彼は私が物流センターでアルバイトをしていた時のバイト仲間。
その後Nisseiにジョインしてくれて、これまで苦楽を共にしてきた大切な相棒です。
また、既存のお客様には「2代目が後継者として戻ってきた」ということを知って貰うため頻繁に挨拶に出向き、それと同時に新規開拓のための営業活動、そしてホームページ制作も独学で勉強しWEBからの集客にも力を入れました。
当時は受注していた仕事のほとんどが「下請け」あるいは「孫請け」だったために利益は薄く、忙しく働いたとしても手元にほとんど利益が残りません。そこでこれからは同業者や商社から受注する割合を徐々に減らしていき、その代わりに発注元と直接取引する「元請け」の割合を増やしていく方針を定め、生産管理体制や顧客対応力のレベルを上げていくことにも取り組みました。
このように厳しい状況の中で身を粉にしていた私の心の中には、
「いつか自社商品を持とう。自分たちで値段を付けられる商品が欲しい。」
という「夢」が、切実な願いとして芽生えていったのです。